昭和44年12月30日 朝の御理解
【入力者: 末永 満】
金光様の御信心を頂いておかげを頂くということは、色々な意味このおかげが頂くということが使われますけれども。お取り次ぎを頂いて、えー、お願をしておかげを受ける。九十節を頂いてみますと、お取り次ぎを頂いて信心のけいこをさせて頂いて、そしておかげを受けるということが、これは神様があの、いわば、願うてござる。
金光大神が願うておって下さるおかげというのは、九十節の内容を分からせて頂いて、そして力を受け、徳を受けて、おかげを受けるというのが天地の親神様の願いであると同時に金光大神が願っておって下さるおかげ、ね。
私共が願っておるおかげではなくて、金光大神が願っておって下さるおかげが頂けるというのが私はこの九十節だと思うんですね。御理解九十節を頂いて、成る程、成る程と分からせてもらう、合点がいく、そこから頂けれる信心そしておかげ、ね。
ですから、まぁ、もう金光様の信心の、本格的おかげとで申しましょうかね。御理解十九に、「金光大神は形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやる」仰っておられますね、御理解十九節です。
「金光大神は形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやる」、と。確かに私共がどこから祈らせもらっても、願わせて頂いても心に一心金光大神を願うところにそこに取り次ぎの働きというものは頂ける。
確かにそこに金光大神の働きがある。まさかの時には天地金乃神というにはおよばぬ。金光大神助けてくれというなら助けてやると仰るほどしのおかげ。ですから、そういう意味でのおかげね、皆さんもやはりたいへんな側になることだと思うんです、ね。
(?)金光サマーとこうおすがりをする。皆そこにすでに金光大神が、いわば、現れて下さる。そこでもう金光大神にお取り次ぎをしたことに頂いたことになり、金光大神の働きがそこに始まる、そこにあるわけ。
だからそういう意味でのおかげね、ですからそういうところからこう一本の外へ、一本にそれ、そこからあの、出ようとしないで、えー、ただ金光様、金光様でおかげを受けていくというふうに考えで、そしてそこから一本も出ることなしに信心を終わっていく(?)もありますね。
けれども、九十節を頂いておりますと、これはだからそういう見やすい、見やすうというわけにはいかんね。それは、下から上へ水を流すように難しい。道を開くというても、匹夫凡人から開くのじゃからとこう。
ということは何も知らない私達、何も知らない、何もできない。これが匹夫の俗人と、いうことだとこう思うんですね。それはそうですよね、第一金光様の信心を頂いて初めて知ったのが「天地の大恩」である。
そこから、(?)な、天地の心とても、神様の心を少しづつ分からせて頂いて、だからですから、匹夫の俗人と。何も知らなかった時代。ですから、金光大神、形がのうなったら来てくれというところに行ってやると、仰る意味合いの時には、何も知らんでもいいということなんです。
金光大神、金光大神を唱えること、願うこと、拝むことだけでよいけれどね。道を開くというてもこう、その道を開くどういうことか。それは、まぁ、布教者が布教に成就すると、いわば、そういう意味でもここはいわれておるのじゃなかと思いますね、道を開くという。
教会が開かれる、そしてその教会で人が助かっていくというような道が開かれるということは中々やはり(?)ことであり、難しいこと。(?)私共こんところを、私共が今申します、金光大神が、にお願しますというて現れるおかげ、そういうおかげではなくて、いわゆる、道を開くというおかげ。
いうならば、天地のおかげの源泉とでも申しましょうかね、源。そこからですね、限りなくおかげの頂けていけれる道なんです、ね。十九節の中でも、その時その時に金光大神のお取り次ぎを頂いて、お願をして、受けるおかげ。
もちろん、金光大神の御取り次ぎ頂いてから、あー、のことでありますけれども、御取り次ぎを頂いて、いわゆる、道を開かせて頂くというおかげ。ですからこんところのおかげを頂かなければ、神様の願いね、神様の願い、金光大神が願うておって下さるおかげとはいいのです。
神様が願うてござる、ね、その願いを金光大神が受けられて、そしてそれを今度は願うおって下さる、取り次ぎでよって下さる、ね。金光大神が私共に願うおって下さるおかげ。天地の親神は、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよというのは神様の願いです
。
ならその願いを金光大神が受けられて、ね、そういうおかげを取り次ぎ者、なら皆さんがいわれる親先生が受けられて、ね、願うておって下さるおかげ、ね。その金光大神が親先生が願うおって下さるおかげというおかげが私は金光様の御信心を頂かなければ、ならいわば、頂けぬおかげ。
又、私共もそこんところを願いしてからの信心になからなければならい。ですから、そこんところの意味を一つ、分かって頂きたいと思いますね。御理解九十節、九十を反対に読みむと十九ということなる、ね。
ならその十九節、だから教祖(?)(?)。今日は九十節を頂くんですけれども、なら九十節に頂けれるおかげ、すると、それを反対に読む、今度は九十を十九に。十九節をあの頂きますと、「金光大神は形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやる」というても、簡単にこう受けられるおかげですね。
皆そこから信心が入るんですよね。だからそういうおかげを頂かせて頂く、そしてここんところを頂いてね、そういうおかげの頂けれる道を開かせてもうらうということがです、神様の願いであると分かる。
氏子一人一人にかけておいでられる願い。ところが、神様の願いがです、どんなにあっておってもね、できんのですよ。親の思いがですよ、ね、子供がどーうぞ幸せになってくれと、どんなに思っておってもです、どうにもしようがないようなもんです。
天地の親神様、だからある意味で全知全能ではないことが分かりますね。ね、そこに金光大神御出現の必要がまたあったわけです。そこで金光大神がその神様の願いを受けられて、金光大神のお取り次ぎをさせてもらう、手代わりをさせてもらう取り次ぎ者。
皆さんが、いわゆる、親先生がその金光大神の又願いを受けて、願うところかというとね、いわゆる、皆さんが本当のおかげを受けて下さるということである。いうならば、目先目先のおかげではなくて、本当のおかげを頂いて下さることを、いわゆる、金光大神は願って下さるのです、ね。
天地の親神様がいかにどうぞう氏子信心しておかげを受けてくれよという願いをせんままとござってもね、(?)。そこにお取り次ぎの働きが必要。そこでその願いを受けられて、金光大神が願っておって下さる、願って下さる。
その願って下さるおがげが私は九十節、ね。それが私がいかにお取り次ぎでも私がいかに天地の親神様にお願いをしてあげても、そのおかげは簡単には頂けないのぞと、いうこと。そこにここでは、辛抱という言葉もつかってまいります。
又、上から下へ流すのは見やすいけれども、下から上へ水を流すのは難しいと仰っておられるほどしに難しいということをいうておられますね。下から上へ水を流すほどに難しい。そこでここで分からせて頂かなければならないことはです、道を開くというても匹夫の凡人から開くのじゃからとこう、ね。
匹夫の凡人というのは何にも知らない、ね。何もできない私なのです。それを金光大神のお取り次ぎによって、今度匹夫の凡人がです、いろいろ分からせて頂くことになるわけです、ね。
そこで例え匹夫の凡人がです、いろいろなことが分からせて頂く、辛抱しながらそこんところを行じていくうちに、もうここでは匹夫の凡人でなくなってくるわけなのです、ですね。そういうことになるでしょう。
ほんとに天地の通り何て考えてみたこともなかった。天地の大恩何てほんとにそれを真剣に思うてみたこともなかった、天地の大恩に対してお礼を申し上げたこともすらもちろんなかった。もう当たり前ことのように思ってた。
私の目の前に新たな道が展開してくる。物の、の考え方物の見方が全然すっきり変わってくる。天地の大恩が分かり、天地の通りが分かってくると、そうなのです。匹夫の凡人からです段々信心の勉強をさせてもろうて、まぁ、いうなら、段々そういう通りをわきまいての生活ができるようになるわけです。
ですから、ひまがいる。神のおかげで開かせてもらうのぞと。例え、一時は難しいことがあっても辛抱していくうちに、が徳が受けられる。神のおかげで開かせてもらうのぞと。これは神様に一心にお願いしていきょら、いつかは開けるというようなもの、意味じゃないですよねここんところは、ね。
神のおかげで開かせてもらうのぞとね。長いも十年、二十年、三十年と信心をしていきょら、ね、いつかは神様がおかげを下さるといったようなものじゃないのです。神のおかげで開かせてもらうというのはね、今も申しますように、匹夫の凡人から何も分からなかったところから本当なことがです少しづつ分からせて頂いて、それをぎごちなことながらもです、まぁ、かつかつながらもそこを行じ勤めさせて頂いていくうちに、ね、これは願ってという意味じゃありません、ね。
本当なことが分かってくるから、本当なことのおかげが段々頂けてくるということです。例え、一時は難しいことがあっても辛抱していくうちに段々すっきりとした信心が身についてくるようになる、ね。すっきりとした信心が身についてくるようになるということをここでは辛抱していくうちには、徳が受けられるというておられます。
その徳、辛抱していくいちに徳が受けられる、そのお徳によって頂かせて頂くおかげ。そこから、普通では考えられないほんとに下から上へ水を流すほどしのおかげが頂けてくるようになるね。
私共が信心を段々させて頂きながらもいつまでも匹夫の凡人であってはならないということが分かりますね。いわゆる、信心をさせて頂く者信心を頂いていない者の違いというものがです、もうはっきり出てこなければならんことが分かります、ね。
信心じゃないなら、差もあろうと。信心を頂いておるおかげでそこんところが分からせてもらう。信心がないなら腹も立とう。ところが、信心を頂いておるとそこは腹の立つところか。お礼を申し上げる心すらが頂けれるというぐらいにですね、開きができなければならんことがここでは求められておるわけですね。
ところが、何十年立ったっちゃね、いうなら、隣の人は信心がない人といつも小競り合いがあったり、信心のない人といつもその何かは競争するような状態であった。一つも信心を頂いておる値打ちといったようなものがです、自分の心の上に家の上にも現れてないとするとね、だから、それ、それではだからここでいうその、おかげはひら、神のおかげで開かせてもらうというようなおかげは生れてこない、ね。
神のおかげで開かせてもらうというおかげ。それには私共は匹夫の凡人から段々分かるところが分らせてもらうて、願うことも思うことも考え方も変わってくる。そこに信心の成長がある。
そこに神のおかげで開かせてもらうというおかげが受けられる、ね。それはどんなに難しい問題でありましてもです、神様のおかげをもってすると、それが、まぁ、それこそいと簡単におかげを受けらるようになるわけですよね。
一つも難しいこと、それこそ、上から下へ水を流すようにと、いうわけいかんと仰せられますけれどもね、ちょうど上から下へ水を流すようにすむうずにおかげになってくる。上から下へ水を流す。私共がいわば、神になる、ね。
匹夫の凡人から私共が神を目指す。いわゆる、向上する、上を向いていく。ですから、当然上から下へ水を流すようなおかげになってくることを感じます。匹夫の凡人である上に、上から下へ水を流すのは難しいのである。
あ、下から上へ水を流すように難しいのである。私共はだから、神になる、上になる上位になる、ね。ですから、上から下へ水を流すように見やすい。そこにいうならば、大人と子供ほどしの違いができてくるわけです。
どうでしょうか皆さん、隣のおばちゃんと同じなことをじゃないでしょうか。(笑)隣は隣ならこっちもこっちと。隣は信心はないのですよ、いわば、ね。これではね、おかげが受けられません、ね。
ほんとに天地の通りが分っていきよらん、勉強しよらん。ほんとに天地の御徳が身をもって感じられよらない。そこに信心のあるのもの、ないもの大した変わりというようなことで、頂いていくおかげは、何処まで御理解第十九節、ここの九十節の反対のところ、十九節。
ただ金光大神様を願いよるだけ、ですから、これはどんどん金光様、金光様ばっかりいうちからと、信心のない者からいわれることになる、ね。ところがこの九十節になってくると、成る程金光様、金光様ていうござったら、素晴らしいことじゃな、おかげが受けられ、ああいう素晴らしい家庭が築かれた、ああいう素晴らしいおかげが頂かれたということになってくる。
ほんとに信心のある者とない者の違いをね、もう自分ながらもうむこうにほんとに感じられる。それは大人と子供ほどに考え方が、いうたらもうより以上でしょうけれども、考えらるぐらいなおかげを頂かしてもらうということ。
そこにいわば、信心させて頂く者の助かりというのはある。金光大神が来てくれというところへ行って下さって、頂くおかげというのではなくて、ね、私共の、いわゆる、心の成長がね、大人になるから心が助かっておる。
例えば腹が立つようなことでも腹が立たん。心配ながらでも心配にならない、ね。人が恐いと思うことでも、どっちも恐いということではないということが分からせてもらう。いや、むしろ、そういう問題がです、ね、そういう問題がかえっておかげの元であるということ。
そういう状態になるから神のおかげで開かせてもらうのぞというおかげが開けてくる。そういう道が段々開けてくる。そこに、いわゆる、明徳を受けていくというおかげが受けられるのです。どうぞ今日は御理解十九節と、いわば、九十節の、に感じられるおかげ。そのおかげの私共の場合はどちらも必要です、ね。
まさかの時には、成る程そこに金光大神の働きを頂かなければおれないことが多いのですけれども、ならそのことだけで、たとえば、信心が一生終わってしまうというなことじゃなくて、私共がね、匹夫の凡人、いや、匹夫の俗人というたらいいね。匹夫の俗人からです、ね、私共がそこんところを匹夫の俗人ではない、いわゆる、神に向かっていくところの姿。
神は上という字もありゃ、神様の神の通じるでしょうがね。ですから、上から下へ水を流すように見やすう、すむうずにおかげの道が開けてくる。そこまでが下から上に水を流すように難しいのである。
そのためにはいよいよ私共がいつまで匹夫の凡人というのは隣のおばちゃんいつまでも同じじゃあっちゃいかんということです、ね。そこから頂けれるおかげをこれはもうおかげではなくて、お徳である。
そこんところに、やはり時間がかかるとこういうておられます。簡単には受けられない、それはそうでしょうね。和賀心が神に向こうて、神に向こうていくということですからそう簡単には頂きません。
だからそこのとこに、楽しいが向上していくということの喜びがです、ね、だからどうでも信心には必要だということになります。ただいつも、いつも金光大神に来てくれ、金光大神ただ、金光様とお願いすりゃおかげが受けられるというおかげからね、私共が、道を分かり、ね、匹夫の俗人から俗人じゃない私達をめざ、目指させて頂くところの信心を身につけていかなければならないということがこの九十節に感じられます、ね。
そこんところからですね、またの御理解に信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると、仰せられますが、ね。ただ金光様というて、願い、願うおかげなら見やすいけれども、ただ今私が申しましたような、九十節にあるところは見やすいと思われないけれども、それが神になることになる。
そのことが身についてくる。もう匹夫の俗人ではなくなってくるとです、そのことはもう一つも難しいことではない。それは私に(?)運転をせろというてもそれは難しいことである。
けれども、その運転免許とるほどしの腕まえができてくると、そんなに難しいことじゃないでしょうが。こげんな簡単なことがどうしてできんじゃろうかと思われるぐらいだろうと思う。
ところが、けいこしない者は、やはり、いつまでたっても(おがすことすら)できないように難しいのである、ね。運転免許がとれるほどしの腕まえになってくる時に、それは見やすい、上から下へ水を流すほどに見やすい。 けれども、それを覚えないまでは、下から上に水を流すほどに難しいということになるですよね。どうぞ。